映画のふるさと (2005)

この映画を準備しながら、私はひとつの文章を憑かれたように、幾度も読みかえしている。「文学のふるさと」と題された、坂口安吾のエッセイである。そのなかで安吾は、ぺロオの「赤頭巾」や、とある狂言、芥川龍之介が経験したという話、伊勢物語の一話などの例を引いて、これらの物語が「絶対の孤独──生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独」のようなものを伝えているといい、またそこに人間の「ふるさと」をも見い出している。「それならば生存の孤独とか、我々のふるさというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。(中略)そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります」。

この映画は一人の男がひとつの場所に立ちかえってくる物語である。その場所とは、その男が生れ育った「ふるさと」であると同時に、安吾的な意味での「ふるさと」でもある。だからこの作品は、「むごたらしく、救いがない」。そのような映画をつくることは、時に気の滅入ることだ。いまこの企画書を読まれている、今後この作品に関わりを持たれるであろう各位にも、この映画のむごたらしさ・救いのなさが密かに伝播するのではないかと、私は危惧してすらいる。しかし文学が暗黒の曠野のごとき「ふるさと」からしか始まらないように、映画もまた、おそらくそこからしか始まらない。心から祈るように、私はそう思っている。


(短編映画企画書『トーチカ』)