初等科では井川さんのクラスだったけど、高等科に上がるとき、西山洋一(洋市)さんのクラスを選んで移った。16ミリの製作実習も、企画やシナリオの指導も、僕はもっぱら西山さんだったので、井川さんと接する時間は、初等科の年よりずいぶん減ってしまった。
あるとき、井川さんがポツリと、
「きみは西山さんのところに行っちゃったからな」
と言った。
僕はドキッとして、
「いや、ほかの講師のやり方にも興味があって……」
などと、その場でゴニョゴニョ弁明したが、それに対して、井川さんはもうなにも言わなかった。
そんなことがあったので、井川さんにはどこか距離を置くようになり、そのまま高等科の修了式になってしまった。
修了式では、事前に提出したシナリオによってスカラシップが発表されることになっていたけど、僕は肝腎のシナリオを出すことができなかった。
情けなさと決まりの悪さでいっぱいになって、その日をやり過ごした。
「こんな話があるんだが、きみ、やってみるかい?」
そう井川さんから言われたのは、ちょうどそのころだった。
なんだか井川さんが、こっちのわだかまりを溶かそうとしてくれているみたいで、胸が締めつけられた。僕の考えてることなんて、井川さんにはお見通しだったのかもしれない。そもそも、井川さんとこうして二人で話をすることさえ、えらく久しぶりの気がする。
こんな話、というのは、イメージビデオというのか、アイドルビデオというのかの構成の仕事で、井川さんのところに2本来た仕事のうちの1本を、僕にやらせてくれるというのだ。
よくあるアイドルビデオにドラマ色というか、ストーリー性を持たせたもの、というのが、今回の注文らしい。
もちろんお金も出るのだが、なにしろ僕は、それまでものを書いてお金をもらうという経験をしたことがない。
けれども井川さんは、
「やってごらんよ」
と平気で言った。
結局、僕はその仕事をやらせてもらうことにした。
井川さんも僕も、その手のビデオを見たことがなかったので、井川さんの発案で調査研究のため、二人で新宿のツタヤに行って、適当なアイドルビデオを数本借りて、僕の部屋で見ることになった。
それは夏のひどく暑い日で、クーラーも扇風機もない、風通しが悪くて、薄暗いアパートの床にアグラをかいて、井川さんはなにかでパタパタと顔を扇いでいた。
黙って最初の1本を見、2本目を途中まで見たぐらいで、シビレを切らしたように井川さんが、
「分かった。10分に1回くらい、水着のシーンとベッドの上で転がってるシーンを入れればいいってことだな! HもののVシネと同じことだ」
僕らは調査研究をそこまでにして、蒸し暑い部屋から逃げ出した。
さて、好きに書いてごらんよ、と井川さんには言われたけど、なにをどう書いていいものか、見当もつかない。
やっとのことでひねり出したのは、以前恋人と来た南の島を独りで訪れた女の子が、自分のドッペルゲンガー(?)に出会うという、アイドルビデオとしてはいささか異色の内容だった。そこに井川さんとリサーチした通り、水辺のシーンや、ベッドの上で寝っ転がってるシーンをどうにか入れた。
打ち合せの席で、プロデューサーや監督、それに井川さんが原稿を読んでいるあいだ、僕はドキドキしながら待っていたが、井川さんは読み終わるなり、となりの僕にだけ聞こえる声で
「いいんじゃないか」
と短く言った
それだけで、スッと肩の荷が下りた気がした。
幸運にも、僕の案は却下を免れた。
このとき井川さんが書いてきたのは、金魚鉢を脱走した金魚が女の子の姿になって、東京から南の島まで家出をするという、小咄のようにユーモラスで、とてもかわいらしいもので、これには監督もいいねと言った。
その年の秋から、映画美学校では高等科を修了した1期生と2期生を対象にして、研究科というのがはじまることになっていたけど、僕は行かないつもりだった。高等科ではとうとう満足なシナリオ1本書けなかったし、学校はここまでにしておこう、という気持ちでいた。
ある日、井川さんから電話があって、驚いたことに、それはまた仕事のお話だった。ただし、今度はアイドルビデオじゃなくて映画で、ホラー小説を原作にした本編だという。僕をその共同脚本にするというのだ。
「ギャラだが、60を二人で35:25、ということで、どうだい?」
と井川さんは言った。
それは、お前なんかにこんなにくれてやるんだぞ、というような調子じゃなくて、「これくらいの感じなんだが、きみ、ひとつどうだい?」と、まるでこっちにお伺いでも立てるような口ぶりなのだ。
こんなお金の話を包み隠さずに書くのは、こういうところにも(いや、こういうところにこそ、か)、井川さんの公正なものの考え方というか、人への接し方があらわれている、と思うからなのだが、とにかく井川さんは、はじめにお金の話をした。
仕事の話をするときは、お互い口にしにくいお金の話こそ、まず最初にしなくちゃいけない、というのが、井川さんがご自分の経験から学んだ、大切な教訓のようだった。
しかし、本当にありがたい話だけど、いくら井川さんのお手伝いとはいえ、素人の僕にそれだけのお金をいただくに見合った働きができるなんて、とてもじゃないが思えない。
でも、返事をぼやかしているうち、だんだん井川さんの真意が分かってきた。
「なに、きみはその金で、研究科に行けばいいさ」
きみがかたちだけでも研究科に籍を置いておけば、べつに毎回授業に出てこなくったって、学校の機材がいつでも借りられるし、それを使ってみんなで好きに映画を撮ればいい、というわけだった。
井川さんが僕に声をかけてくれた目的が分かってしまうと、僕にはもう、断る選択肢はなかった。
僕にギャラ相応の仕事ができるだなんて、井川さんはハナから期待してなかったに違いない。ただ、僕を共同脚本という立場につかせて、授業料分のお金を得させようとしてくれたのだ。
いつか井川さんは、脚本のクレジットが連名になっているのは、製作の途中で揉めた結果であることが多くて、その出来もイマイチな場合が少なくない、と言っていた。
当然だけど、今回の仕事だって、井川さんはこんな面倒くさいことをせず、単独で受けたかったはずだ。
それを考えると、せめて足を引っ張らないようにしたかった。僕はすぐに本屋で原作の文庫本を買うと、これがどう映画になるか、考えた。
井川さんは僕のつたない意見も軽んじることなく、ちゃんと耳を傾けてくれた。
話し合いをもとに、すぐに井川さんがプロットを起した。プロットの枚数は最初5枚、つぎに7枚、つぎに12枚、というふうに、改稿するたび増えていった。
あるとき井川さんから、不動産屋の物件情報のコピーを渡された。そこに載っている市川の一軒家の間取り図に、ここが主人公の書斎、ここが妻子の部屋、というように、設定を割り当てていった。
しかし、その間取り図はいつの間にか放棄されて、主人公の家は井川さんのマンションをモデルとする、ということになった。
井川さんは想像力の支えを身近なところに必要とした。
また、参考試写ということで井川さんが選んだデ・パルマの『フューリー』を(今度は千葉の井川さんの家で)見た。
井川さんの作った料理をごちそうになり、お酒も飲んだ僕は、ビデオを見ながら床で眠ってしまい、井川さんがそっとタオルケットをかけてくれた。
プロットの途中で、プロデューサーや監督との打ち合わせがあり、井川さんと僕は、メモを取りながら意見を聞いていた。
そのとき、監督からの提案があまりに的外れに聞こえたので、僕は思わず吹き出してしまった(失礼な話である)。
すると、それに気づいた監督が、こっちにキッと向き直って、「変かな? ねえ変かな?」と、イラ立ちを隠さずに言ったので、(やばい!)と思い、「イヤイヤイヤ」と、慌ててその場を取り繕った(ぜんぜん繕えてないけど)。
そのあと井川さんと二人になって、このことを思い出し、ついつい気が緩んだ僕は、井川さんも同調してくれるのを期待して、
「監督、ずいぶんおかしいこと、言ってましたねえ」
と、いつもの調子で軽口を叩いた。
すると井川さんは、まったく真面目な、厳しい顔つきで、
「そんなことはない。かれはずいぶん有益なアイデアをたくさん言っていたぞ」
と、ピシャリと否定した。
僕は(ええー本当かなあ?)と思ったが、あとになって、(ああ、これが仕事ということなんだ)(本音か建前かは、それはまたべつにして)と考えた。
それ以外にも、井川さんから注意されることがあった。
「きみは打ち合わせのとき、いつも人前でこーんなふうに足を組んでるじゃないか」
と言って、僕のエラそうな態度を真似して見せたので、僕ははじめて(ハッ!)となって、(井川さんに恥をかかせてしまっていた)と思った。
こういうときの井川さんは、世間知らずの僕にとって、先生というより、兄のようであった。
プロットがようやく固まると、いよいよシナリオを書く段階に入った。シナリオの執筆はプロットまでとは変わって、それぞれの分担作業になった。
井川さんは、ドラマ上、比較的むずかしくないシーンをいくつか選んで(実際、井川さんからそんなふうに説明されることはなかったけど)、僕に書かせてくれた。しかしそれは、(こんなにたくさんを)と思うくらいの分量だった。
横書きのプロットを縦書きのシナリオに書き換えていくと、いくつもの問題に出くわした。それをひとつずつ乗り越えていくのは大変だったけど、あれこれ自分なりに工夫しながら、セリフやト書きを具体的に書き込んでいくのは、「映画を作っている」という感じがして、楽しかった。
なにより、井川さんに仕事をまかせてもらっているということが、とてもほこらしく、うれしかった。
僕の書いたシーンは井川さんの手も入って、井川さんの担当分に統合され、こうしてシナリオの初稿ができた。
井川さんはほかのどの作業よりも、直しの作業を重要視していた。
プロデューサーや監督からの意見も取り入れ、シナリオの稿は改まっていったが、直しもだいじな大詰めにさしかかって、井川さんの家で泊まり込みの合宿をすることになった。
夕食後、この日は引き続き仕事をするので酒抜きで、直すべき箇所を検討していった。
ひとつ、場面展開で井川さんが納得していない難所があって、そこで詰まってしまった。
僕の考えもいろいろ聞いてくれるのだけど、なにも思い浮かばない。というか、井川さんがいったい、なににつまずいているのかさえ、正直なところ、よく分かってなかったかもしれない。
シーンとした部屋の、ダイニングテーブルで差し向かいになって、井川さんも僕も紙面に目を落としているばかり、という状態が長く続いた。
(いいんだろうか、ここに自分がいて?)(邪魔してるだけでは?)(手ごたえのないヤツ、と思われてるに違いない)と思った。
「ちょっと気分転換、してきます」
と言って、マンションを抜け出し、張りつめた空気からしばし解放されて、ホッとひと息ついた。
夜道を歩きながら、じつは気になって仕方がなかった野球の試合経過を聞くため(その夜は巨人とダイエーの日本シリーズON対決の開幕ゲームだった)、映画美学校2期で同期の宮田啓治くんにPHSから電話をかけた。
「槙原がホームラン打たれて、ダイエーが勝ってます!」
と宮田くんが教えてくれた。
結局、その日はそれ以上粘らずに切り上げて、早めに寝ることになった(井川さんは無理せず休息を取ることを大切にする)。
翌日井川さんは、紙に懸案の部分の流れを箇条書きに書き出し、それを歴史の年表みたいに横に長くつなぎ合わせて、リビングの壁に貼った(今回、チラシやSNSで使ってる井川さんの部屋の写真の、左端にちょっとだけ見えてるソファーがありますが、その上あたり)。
そして壁に向かって、なにかブツブツと呟いていた。
そのときの井川さんは、僕が同じ部屋にいることなど、もうほとんど気にとめていないようだった。
それから、秋の午前中の白っぽい光のなかで、ガランとしたリビングの同じところを、黙って腕組みしたまま、ただぐるぐると周回しはじめた。
それは、井川さんが問題解決の手がかりをつかむまでしばらく続いて、僕はダイニングテーブルから、その様子を見ていた。
その後、準備稿が上がり、さらなる直しを経て、ついに決定稿が完成した。
真冬の東北での撮影には、宮田くんが演出部で入ることになったが、これも井川さんの計らいである。
井川さんには、人の適性を見て取って、その方向へ強力に(ときどき、ちょっと強引に?)後押しする、というところがあった。
このときも、宮田くんに修行として商業映画の現場を経験させよう、という思惑だったはずだけど、これは宮田くんにとって、なかなかハードな体験だったようだ。
ある夜遅く、ロケ先の宮田くんから電話があった。
「ホント大変だよお」
と言って、撮影中の出来事、慣れない現場での苦労話をあれこれ教えてくれた。その声は、気がねなくグチをこぼし、無駄話できる相手にずっと餓えていたふうだった。演出部の下っ端として、気の抜けない毎日が続いていたに違いないのだ。
「こないだ石立鉄男の衣装持ちながら寝ちゃって、『衣装持ったまま寝るとは、いい度胸だな』って言われたよお」
「ええー」
「『御法度』の現場よりキツいですって、トモロヲさんが言ってたよお」
「まじかー」
なんていう長電話をしながら、苛酷な現場の様子を東京から想像するしかなかった。
初号試写が開かれるころには、もう春になっていた。
僕は井川さんと並んで、試写室の席に着いた。
映画がはじまってほどなくして、僕は異変に気づいた。
スクリーンに映っているものが、井川さんと僕が書いたシナリオとは違っているのだ。
ホンが書き変えられたことは明らかだったけど、それは演出上、現場で変更しました、という程度じゃなく、筋の運びや、全体の構成にもかかわってくるくらいの変わりようなのである。
(え、なんだコレ?)
となりの井川さんの様子を恐る恐る窺ってみると、抑えようのない憤りがびしびしと伝わってくる。
(うわーまずいことになった)
それからは、井川さんの反応が気になって仕方がなかった。
改変は全編に及んでいて、ほとんどもう、呆れて笑ってしまいたくなるほどだった。
やがて、エンディングが近づいてきたあたりで、井川さんがこっちのほうに身を乗り出し、僕の耳元で、
「オイ、明るくなる前に出るぞ」
と低くささやいた。
(!?)
予想外の展開に僕は面食らってしまったが、はたして井川さんがすばやく席を立ち、身を屈めて出口のほうに向かったので、遅れまいとそのあとに続いた。
急ぎ足でロビーを抜け、廊下を突き進んで、地上への階段を上り切ると、井川さんは黙ったまま、ただ、ぐんぐん歩いた。
それは、さっきまで見ていた映画そのものから、懸命に身を引き剥がそうとでもしているみたいだった。
なにも話しかけられず、僕も、ただ一緒になって歩いた。
井川さんには、いま間違っても話しかけてはいけないだろうなと、こっちに分からせるようなときが、たまにある。
銀座の外れの試写室からどれくらい歩いただろうか、どこかの居酒屋に自然と入って、二人で腰を下ろしたころには、井川さんはかなり落ち着きを取り戻していたけど、むろん、まだその怒りはおさまっていなかった。
監督サイドからはシナリオの改変について、事前になにも聞かされていなかったこと。これはお互いの信頼に反した、道義にもとる、許されないおこないであること。しかも、その変更がまるで意味不明であること。
これらのことを、井川さんは立て続けに語った。
話を聞きながら、井川さんがあんなに監督を擁護していたことが頭をよぎって、おかしかったけど、さすがにそれは黙っておいた。
「僕たちの名前はクレジットに入ってしまっているが、今後宣伝のときには、一切、外してもらうことにしよう」
それには僕も異存なんかない。ときには戦ってでも、守るべき一線を守ろうとする井川さんを見るのは、心強かった。
ただ、いまごろ試写室はどうなっているんだろうな、という心配は、少しあった。僕はたんなる見習いだが、井川さんはプロの脚本家なのだ。この先、ややこしいことにならなきゃいいけど……
僕の顔に浮かんでいる不安を、井川さんは察したのかもしれない。やっぱり、僕が考えてることなんて、いつもお見通しなのだ。
思い出したように、目の前の僕をことさら安心させるような口調で、
「いや、ギャラのことなら僕がちゃんと話をつけるから、きみは心配いらない」
と言った。
(旧Twitter「井川耕一郎の仕事部屋」7.30監督作品上映会 @ikawa2022wr #井川耕一郎と私 2022年7月23日)