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複製が重ねられたせいか、そのモノクロ写真はコントラストが高く、画面に拡がる黒色からはニュアンスというものがほとんど失われている。濃くのっぺりとしたその黒を下地にして、縦書で数行に分かたれたハングルが白く浮かび上がっているが、行が斜めに傾いだその文字は、子供が戯れに彫った木版を紙に刷ったもののようにも見える。
テレサ・ハッキョン・チャ(Theresa Hak Kyung Cha)のDictéeの表紙をめくった見返しに見られるこのハングル文字は、「お母さん/会いたい/おなかがすいた/故郷の家に帰りたい」という意味らしい。チャ自身はこの写真にいかなるキャプションも付していないが、翻訳者の池内靖子は、これらの文字が戦前強制連行された労働者の手によって炭坑の壁に刻まれたものであるという説を紹介する一方、戦後の日韓条約反対闘争の時代に刻まれた可能性もあるとの異説を付記している(『ディクテ―韓国系アメリカ人女性アーティストによる自伝的エクリチュール』訳注、青土社、2003年。なお本稿中、日本語による引用は池内訳に拠った)。
『ディクテ』はインスタレーションのような書物だ。ギリシア神話の9人の女神たちの名前を冠した九つの章=部屋に、複数の言語からなる詩的な散文、語学の練習問題、公的文書、彼女自身の手書き原稿など、多種多様なテキストが並列され、そこに多数の写真や図像、空白が配置された構成からは、70年代のアメリカ西海岸で映画やビデオ作品、パフォーマンス・アートを手がけたチャの実験的な創意が伝わってくる。
チャは朝鮮戦争中の1951年に釡山で生まれ、62年に家族とアメリカへ移住した。『ディクテ』においても自らのルーツを辿るように、日本による植民地支配下の朝鮮半島の歴史や、満州で生まれた母親の過去への遡及が試みられているが、「なぜ、いま、こうしたことすべてを蘇らせようとするのか。過去から。歴史、古傷。過去の感情すべてをくりかえし呼び覚ますのか。同じ愚行を再び生きていることを認めるため。それをいま名指すことは忘却の歴史をくりかえさないため。言葉からイメージから、断片に次ぐ断片、破片、かけらを抜き出し、別の言葉、もうひとつのイメージを、歴史を忘却のうちにくりかえさないという返答を求めて」と書くチャにとって、歴史を記憶することとは徹底的に断片化された過去の言葉やイメージのうちに忘却に抗う力を読み取ることにほかならず、壁に刻まれたハングル文字も、それがいつの時代のものであれ、まさにそのような一片の言葉、イメージとして見出されたのだろう。
『ディクテ』の末尾に――ある意味でそれは、1982年の同書の出版直前、暴漢に殺された彼女の人生の末尾に、と言えるかも知れないが――「Lift me up mom to the window」から始まる短いテキストがある。
夕方なのか朝方なのか判然としないが、弱い光が窓から差し込む部屋――チャが敬愛するカール・ドライヤーの映画を想起するような室内の情景である――に、一人の女の子が立っている。彼女は自分の低い背丈では決して届かない高さの窓を見上げては、白い窓枠に嵌ったガラス越しに外の光景を見ようと、小さな身体を懸命に後ろに反らせている。何か子供の喜びそうなものが窓の外にあるわけではない。暗く灰色に霞んだ、静まり返った眺めがあるばかりだ。女の子は母親に呼びかけて、自分を窓の高さまで持ち上げてくれるよう頼む。その声が聞こえる場所に女の子の母親がいるのかどうかは、結局示されない。家々や通りに人影はなく、静寂があたりを支配しているが、刻々と推移していく光のなかで、樹木はこれから起こる出来事をじっと待ち構えているかのようだ。なおも彼女は自分を持ち上げてくれるよう呼びかける。やがて窓の外からは大きな変化の予兆が軋みとなって聞こえてくる。
外が見たいと駄々をこねて泣くのではなく、何が見えるか教えてとせがむのでもない。勿論、自分の身の丈を超えた高さを理由に早々と見ることを断念するのでもない。彼女はただ、
以前から私は、短いが喚起力のあるこの一篇が好きだった。しかし最近になって、このテキストが見返しに置かれたハングル文字の写真に応答し、これを現在に引き受けているのではないかと思うようになった。この少女は、自らの目で窓外のイメージを見ようとする意志と身振りによって、かつて子供のように母親に呼びかけ、空腹と淋しさを訴えるほかなかった者たちの痕跡――暗闇のなかで世界に向ける眼差しを持てなかった匿名の人々の記憶を生き直そうとしている。「忘れ去られたもの。忘却されたものを生き延びることは忘却されたものにとって代わることだ」。
2
私は曾祖母の墓を知らない。正確に言えば父方の祖父の母のことだが、彼女について私や私の身内が伝え聞いていたことは、その名前と、彼女がまだ幼かった祖父を福岡に残し、コレラに罹った家族を介抱するため、周囲の反対を押し切って兵庫の家族のもとに帰ったこと、そこで自らも疫病に斃れたということだけだった。結局一家は集落ごと全滅したというが、その場所がどこなのかもわからず、命日さえ伝わっていない。絵空事めいたこの話の真実性について、疑念を隠さない者もいた。私の曾祖父は賭場に出入りしていたような気性の荒い男だったらしく、嫁に三行半を突きつけられた曾祖父が苦し紛れに編み出した、体のいい口実ではないかというわけだ。
のちに曾祖父と一人息子である私の祖父は福岡から北海道に移り住み、曾祖父はそこで後妻を娶った。後妻と曾祖父はともに戦中に亡くなって同じ墓に入り、私が十の年まで生きていた祖父もそこに収まっている。
私の家には父が祖父から聞き書きしたのだろう、ささやかな家系図がある。「1967」という年号の、すっかり茶に色が変わって巻き癖のついたカレンダーの裏面、曾祖父の名の傍らに、「森本タキ」という名前があった。いつしか私はその名を見るたび、彼女の最期について知りたいと考えるようになったが、手がかりに乏しい以上、それは困難なことに思われた。
数年前の秋、大阪に行く用事があった私は、思い立って一日早く姫路に宿を取った。城のそばにある県の歴史博物館に行けば何かわかるかも知れないと、漫然とながら考えてのことだった。
資料を探していた私に、今日がここでの初仕事というボランティア・スタッフの女性が声をかけてくれた。私はかつて県内で流行ったコレラで自分の曾祖母が死んだこと、場所については見当もつかないが、集落ごと滅んだという話から、辺鄙な山あいを勝手に想像していること、遺児である祖父が明治32年生まれなので、時代は明治30年代のなかごろだと思うことなどを説明した。早速女性は別室にいる学芸員に話を取次いでくれた。
ほどなくして学芸員からの回答が伝えられた。コレラはおもに都市部で流行した病であり、場所はおそらく神戸であろう。開港以来、神戸ではたびたびコレラが流行り、明治10年代、20年代に大きな被害が出たが、お尋ねの時代であれば明治35年の流行ではないか。無知に委せた私の想像はこれによっていくらか修正されたわけだが、到底曾祖母個人にまで辿り着けるようなものではなかった。
私がそこで目にした資料にも、明治35年の兵庫県内のコレラ死者数1,384人、神戸市内のコレラ発生件数811件、という記録があった。だが、もしこのなかに曾祖母が含まれていたとして、どうやって探し出すことができるだろう。
辞去しようとしていたところへ、スタッフの女性が駆け戻ってきた。学芸員がデータベースを調べてくれ、この日の新聞にコレラについての記事があったと言う。渡された裏紙には「神戸又新日報/明治35年9月3日/本県下のコレラ患者数」と走り書かれてあった。私は礼を言うと、マイクロフィルムを所蔵している明石の県立図書館へ急いだ。
閲覧室の投影機に向かって、私は当日の紙面を見ていった。1面、2面、3面と、古めかしく読みにくい活字に目を走らせたが、それらしい記事はどこにも見当らなかった。しかし、これはあとでわかったことだが、該当の記事はその1面にあったのだ。そんなこととは知らず、私は記事が見つからないことを訝しみながらフィルムを先に送っていった。
最終の7面まで来たとき、最下段に「市内の虎列剌」なる見出しがあるのを認めた。と、それとほとんど同時だったが、記事の内容を読むより前に活字の連なりのなかのある一点に自然と焦点が合うようになり、森本たき、という名前を私は見た。
私はそれを指さして、思わず「あった」と言った。隣で投影機の操作方法を教えてくれていた図書館員の女性は、無論何のことかよくわからないようだったが、構わず私は「ありました。これ、僕のひいおばあさんです」と言った。
記事には「一昨日來相生橋署及び兵庫署の管轄内にて發病せし患者」として、全部で21名の氏名が住所とともに記されていたが、その19番目に「森本たき(二十五)」、20番目と21番目に「たよ(二つ)やく(十五)」の名前があった。そして記事は「内前記○○、たき、たよの三人は昨日死亡せり」で結ばれていた。
ここに書かれてあることは私が伝え聞いていた話を裏づけていると思われた。あとの二人は妹に違いない。曾祖母の若さにも驚いたが、死んだ子の年端には胸を衝かれた。あるいは親が先に罹患したので、曾祖母が妹たちの面倒を見ていたのかも知れない。
思いがけず曾祖母の名前を発見した感激は言うまでもないが、私の心うちに長くあった「森本タキ」という名前が、「森本たき」としてそこに名を留めているのを目の当たりにするのは、少しだけ奇異な感じもした。
また、わずか一日足らずでこの記事に辿り着けたことに気抜けするような呆気なさを覚えもしたが、ともかく私は興奮を抑えながら掲載面の複写を頼み、続いて当時の地図を調べた。
それから古地図を頼りに路地をぐるぐる歩いたが、夕闇のなかで疲労困憊し、諦めて姫路に戻った。
翌日私は大阪で会った何人かに記事を見せながらこの話を語って聞かせた。また、帰京後札幌の家族へ複写を送って、近所に住む親戚にも今回の収穫を知らせてもらった。
以上が曾祖母を巡る私の調査行動の顛末である。
3
やがて私はこの記事に行き着いた奇縁に一層深く感じ入るようになるのだが、それは次の理由による。
神戸市文書館のデータベースで『神戸又新日報』の記事を検索してわかったことだが、この年の8月中旬から「市内虎列刺」「芸者虎列刺に罹る」など、市中の感染を報じる見出しが現われ、9月、10月とほぼ連日のように「市内の虎列刺」の記事が載っている。「虎列刺消滅」の見出しが見られるのは11月17日のことだ。もし曾祖母の名前が学芸員によって教えられた9月3日ではなく、ほかの日の紙面に載っていたとしたら、私は彼女の最期を知る機会をついに持つことはなかっただろう。あるいはもしあのとき1面の記事に気づいていたら、私は曾祖母の名前がある7面まで目を通すことなく、そのまま図書館をあとにしていただろう。そこには単なる偶然以上のものがあるようにさえ思われた。
私はまた、曾祖母の名字が「森本」のままであったことを気に留めていたが、記事を見た叔母もそのことについて疑問を口にしたらしい。記事は役所の発表をもとに書かれているはずで、氏名が疎かにされるとは考えにくい。ちなみに旧民法が改正されて夫婦同氏制になるのは1898年(明治31年)のことである。内縁関係だったのだろうという推測は容易についた。何らかの事情によって婚姻の届出がなされなかったというのはあり得ることだ。孫である叔母の世代がその事実を知らされていなかったとしても別段不思議はない。こうした事柄は、私が自分の戸籍を遡って調べていけばある程度まで跡づけられるはずだった。
他方で、私は今回の調査やその後に得た手がかりから、曾祖母の出自が被差別部落にあった可能性を感じ取っていた。しかし、その出自を知ることが即ち曾祖母を知ることではない。私はまだ彼女の物語を読み取ることができなかった。
あるとき私は、急に視界が開けるような感覚を経験した。それはあるヴィジョンを私に顕示して、曾祖母についての言い伝えにこれまでとはまったく異なる照明を当て、従来私が不自然に感じていた部分の裏側を残らず照らし出したが、それはまるで彼女自身が自分の物語を語り直したかのようだった。
曾祖母がコレラに罹患して神戸で死んだこと、それは記事に書かれてある通りである。だが彼女は、家族の看病のため制止を聞かずに帰郷したのではなかった。祖父を出産したあとどこかの時点で、すでに神戸へ戻っていたのだ。彼女は我が子を福岡に残していったわけだが、しかしそれは決して自分の意志ではなかった。差別的な力によって、強引に子供から引き離されたのだ。
彼女がコレラで死んだという報せが届いたとき、当時まだ三つだった祖父の周囲にいた人間たちは、将来祖父が徒に母親の面影を追うことのないよう事実を美談に包んで封印し、以降、一切の縁を絶とうとしたに違いない。彼女の命日、実家や墓の所在が伝えられていないことには、そうした意図があったはずだった。
無論これらはすべて、行き過ぎた私の妄想であるのかも知れない。しかし水が染み通るように、私の心のすみずみにこの想念が行き渡ったこともまた事実なのである。
このときはじめて、私は曾祖母を記憶できたのだ。
曾祖母の名前を発見した翌日の大阪で、『ミナト神戸 コレラ・ペスト・スラム―社会的差別形成史の研究』(安保則夫、学芸出版社、1989年)という本の存在を私に教えてくれたのは、今回の上映会を企画した田中晋平さんだった。しかし、私がこれを読むことができたのはごく最近である。
神戸で最初にコレラが流行した1877年(明治10年)、内務省から公布された「虎列刺病予防法心得」には、コレラ患者が出た家の「門戸入口ニ著シク『虎列刺』伝染病アリノ数字ヲ記シテ之ヲ貼付シ成丈ケ無用ノ人ノ交通ヲ絶ツヘシ」との条文があった。患家に貼られた病名票という「印付け」によって、見えないコレラが可視化されたわけである。のちにこれは過度な方策として停止されるのだが、代わって「不潔箇所」として見なされた特定の区域――「貧民部落」が防疫上の最大標的とされた。
だが、この対象化はやがてある重大な逆転を生む結果となる。つまり、実際にコレラ患者が発生したか否かを問うことなく、「貧民部落」=「不潔箇所」=「伝染病発生地」という誤った図式のうちに「貧民部落」を閉じ込めてしまったのだ。こうして表象化・可視化された「貧民部落」に対して、社会は様々な「眼差し」を注いでいく。
この本を読むなかで私は、曾祖母の住所として記事に載っていた町がそうした「眼差し」の対象地域の一つであったことを示す当時の記録を複数目にした。「貧民部落」「細民部落」「特殊部落を中心として市中貧民窟になったもの」――時期は曾祖母の死の前後に跨がるが、いずれもこの町を指す賤称である。
ここで「特殊部落」とされるのはいわゆる被差別部落のことで、1907年(明治40年)前後から使われ出した行政用語らしい。市中に散在していた「貧民部落」が解体され、市の周縁部に再配置された結果、「特殊部落」=被差別部落を核とした「貧民窟」が新たに形成されていった経緯については同書が詳述しているところだが、これ以上この稿で触れる余裕はない。
4
この120年前の新聞記事は決して過去になっていない。そのことを私はこの文章を書くなかで知った。
当初私は、曾祖母や妹たちの名前だけでなく、「市内の虎列剌」という記事全体を引用しようと思っていた。一部を伏せ字にしたり、恣意的に省略したりしては、あのとき、またあのとき以来、私が受け取ったものの本質を伝え損なってしまうと考えたからだ。そして判読の難しい漢字を一文字一文字、やっとのことで入力し終えたが、時間を置いたあとでこれをすべて消した。
それは熟慮の末に私が下した判断だったが、余剰のような思いはなお残った。物理的な複写は簡単であっても、それを社会的に転載することを思い止まらせるだけのものが、この世界には未だある。曾祖母の生きていた過去と私のいる現在はまったく連続している。
かろうじて残された彼女の痕跡と、彼女と境涯をともにした幾多の人々の気配に対して、私は自分の詩を作って応えるべきかも知れないが、今は今回上映される作品と、チャのテキストを以てこれに代える。
彼女の立ち寄った世界がこんなクソみたいな世界でなかったら、彼女は避病舎のボロ畳の上で死なず、もっと多くのものを見ることができた。
Lift me up mom to the window the child looking above too high above her view the glass between some image a blur now darks and greys mere shadows lingering above her vision her head tilted back as far as it can go. Lift me up to the window the white frame and the glass between, early dusk or dawn when light is muted, lines yield to shades, houses cast shadow pools in the passing light. Brief. All briefly towards night. The ruelle is an endless path turning the corner behind the last house. Walls hives of stone by hand each by each harbor the gold and reflect the white of the rays. There is no one inside the pane and the glass between. Trees adhere to silence in attendance to the view to come. If to occur. In vigilence of lifting the immobile silence. Lift me to the window to the picture image unleash the ropes tied to weights of stones first the ropes then its scraping on wood to break stillness as the bells fall peal follow the sound of ropes holding weight scraping on wood to break stillness bells fall a peal to sky.
母さん、わたしを窓まで持ち上げてちょうだい/女の子は自分の視界のはるか上を眺める/窓ガラスを間に隔て/今はもうかすんでしまったイメージ/彼女の視界の届かぬ先にぼんやり暗く灰色の、かすかな影がただようだけ/彼女は頭をせいいっぱい後ろに反り返らせる。わたしを窓まで持ち上げてちょうだい/白い窓枠のガラスを隔て、光が弱くまだほのかな、暮れかかる夕べ、あるいは夜明け、輪郭は影に溶け込んで、家々は移りゆく光のなか、ひとかたまりの影を落としている。ほんのつかのま。たちまちすべてが一瞬のうちに夜へ向かう。路地は一番端っこの家の裏にある角をくねくねと曲がってゆく果てしない道。ひとつひとつ、手で石を集めて作られたミツバチの巣箱のような家々や壁は、黄金の陽光を抱き、その光線の白さを反射する。窓ガラスの枠の内部には人影はない。木々は来るべき眺めにそなえ、沈黙しつづけている。不動の沈黙を解くことにそなえる不寝番の最中に。もしそれが起こるとすれば。わたしを窓まで持ち上げてちょうだい/その写真の/イメージのところまで/ずっしりと重い石に結びつけられた綱を解き放ち/はじめに綱の/それから木材の上をぎしぎしときしむ音が/静寂を破る/綱が重さを持ちこたえ木材の上をきしみ出す音に続き/鐘が落下し鳴り渡り/静寂を破り/鐘は落下し空にとどろき鳴りひびく。
[英語による引用は、University of California Press(2001)版に拠った。]
追記
今年(2022年)になって私は、相続手続のため司法書士が取った祖父の戸籍を目にした。そこには、明治32年に生まれた祖父の認知届を大正5年に曾祖父が出し、森本たきの父の戸籍から祖父を入籍させた事実が記されてあった。
(第20回中之島映像劇場「松村浩行レトロスペクティブ」配布資料。国立国際美術館刊『松村浩行レトロスペクティブ』所収)