誰も私を知らない (2010)

──怖い夢。たくさん人がいて、みんな私の名前を呼ぶんやけど、誰も私を知らない。


自分のことを知らない人びとに自分の名前を呼ばれること。その名前が「沙樹」であっても「裕人」 であっても、あるいは「阪神・淡路大震災」であっても「震災孤児」であってもよい、とにかくその名を口にして「私」に呼びかける数多くの人間が当の「私」のことなどまるで知らないこと。この「怖い夢」のことを、主人公の裕人であれば「間違えた十年」と言い換えるだろう(「僕らは何も知らず間違えた十年を過ごしたのかも知れない」)。『にくめ、ハレルヤ!』という映画を発動させる憎悪(Hate!)とは、「十年」のあいだ続くこの悪夢に対して「私」が抱き熟成させてきた根強い生理的違和感であり、逃走の形をとった──とらざるを得なかった──執拗な拒絶にほかならない。

まるで名指すことの暴力に対抗するように、裕人の背で眠っていた沙樹はやおら目蓋を上げ、キャメラを眼差す。その眼差しの射程は名指し・名指されることのさらなる以前へ、命名という行為に宿る野蛮な暴力性へと溯行するかのようだ。肉親による、そして国家による命名の儀式。その二重に捏造された起源の欺瞞を、ただ黙ってそれを眼差し返すことのみによってなされる、映画だけに可能な「私」の側からの否認。

もとより、裕人の祖母の妄言に混じった「サキ」という固有名詞は一切の尤もらしい根拠=起源を欠いており、その名前への荒唐無稽な執着が準備した二人の邂逅と道行は、公的な名前が本来的に孕む暴力性からの遁走であり、またそれに対しての抵抗でもある。

その抵抗はまた、街の音を聴取するという不断の作業としても持続されるだろう。誰にも名付けられ・ 名指されることのないノイズにひたすら耳を澄ますこと。録音され、張り合わせられたその音響を8mmフィルムが映し出す「震災」のニュース映像の上へと乱暴に重ね合わせること。そうすることで、「阪神・淡路大震災」という公式的な名称のもとで客体として馴致されてきた「震災」が、あたかも「間違えた十年」への復讐のように、ただ強暴な無名の主体として再現する。

きわめて象徴的に使用されるヘッドフォンがかれらの戦線における敵と味方を明確に分別する機能を担う。勝手に耳に当てたヘッドフォンから流れてくる音を自分にはこの音楽は分からないと傲慢に言い捨てる元NPO団体員の安田ばかりが、ここでの敵なのではない。映画が始まって間もなく、背後から裕人を不意打ちにしヘッドフォンを床に落下させる恋人の明子さえも、邪気のないその振る舞いゆえ、敵対者のうちに含み込まれることを完全には免れていない。

かれらの側の人間にとって、裕人や沙樹のような不幸を抱える者たちはかれら自身の手によって救い得る・救うべき「被災者」としてあり、その意図がどうであれ、そこには一方的な善意の行使が生まれる。明子と安田それぞれによって食事が供される場面の描写があることは、この映画にとっておそらく偶然ではないだろう。かれらが差し出す食事は形象化された善意そのものであり、それが「被災者」の当面の生存を助けるのは一面で事実であるが、他面では救う-救われるという関係性のうちに対象を固定し、やがては窒息させてしまう。そのとき、善意は沙樹の母親が幼い娘に振るう暴力と同等の水準にまで堕しているのであり、それが強要する関係性の息苦しさから逃れるように、かれらは野外で、街で眠ることを選ぶ。

かくして二人は神戸という街を彷徨するのだが、それは開放性とはかけ離れた、もうひとつの閉塞した部屋のようだ。一種の逃避行もの、ロードムービーとして見ることもできる本作にあって空間的な運動感が希薄なのは、たんに移動の詳細な過程を描いていないということ以上に、作品固有の空間意識によるところが大きいだろう。

驚くべきテンションに満ちた処女作『日の底で』の主人公・好二が多くの時を過ごす兄の部屋がまるで開かれた密室のようにかれを包んでいたように、この映画の神戸は裕人たちがしばしそこに逗留することを許す巨大な開け放たれた閉域なのであり、明子や安田、あるいは裕人の叔父や沙樹の母といった人物は皆、それぞれの仕方で外部からこの「部屋」の不可視の扉を叩き、開けようとする者たちなのだ。無論、かれらがその内部に立ち入ることは不可能であり、ただ祖母の節子だけが、もし望むならごく自然な足取りでそこに入り込み得ただろう。

『日の底で』の好二が兄の部屋に残された書物やレコード、ヴィデオを通して不在の兄が生きた過去の時間をなぞろうとしていたのと同じく、裕人もまた、復興を遂げた現在の神戸に震災という失われた過去を幻視しようとする。板倉善之にとっての空間意識は時間意識と緊密に連関している。ある空間のうちにゆるやかに留まることは暦に則った規則的な時間進行への反逆であり、現在性からの社会的な背離である。それは過去への無謀な推参の試み──過去との絶対的な隔たりを自覚しつつも、その距離こそを生き直してしまうような痛切な試みなのだ。

記憶にないものを隅々まで記憶し尽くそうとすること。みずからにその記憶が与えられていないことの不条理に対して、身を挺した異議申し立てをすること。この倒錯的かつ不可能的な衝迫こそ、裕人を、また映画作家としての板倉善之を衝き動かすものにほかならない。

かつて近傍で生起したにも関わらず、ついに自分がその当事者たり得なかった出来事の生々しい余韻を知覚したとき、板倉の感受性はもっとも先鋭化する。過酷な生の条件として人間が引き受けざるを得ない与件(=運命)、例えばそれは『日の底で』における殺人と姦通であり、『にくめ、ハレルヤ!』における震災なのだが、圧倒的な所与として個人を脅かすそうした禍々しい暴力の記憶こそ、板倉を惹き付けて止まない。

それらはつねに「読まれるべき物語」として板倉の主人公たちの前に、言わば公然と隠されている。『日の底で』の好二が触知するのは物語の祖型としての「オイディプス神話」であり、『にくめ、ハレルヤ!』の裕人が辿るのは失われた妹を巡る類型的なファミリー・ロマンス(家族空想)である。

だが、このことをもって板倉が好んで既知の物語──精神分析的な手垢の付いた抑圧の物語──を語っていると考えるのは早急だろう。少なくとも『にくめ、ハレルヤ!』に限って言うなら、板倉の関心はそうした原型的な物語の布置のなかにあってなお、そこからはみ出してしまうような余剰を現出させることに向かっているのである。

「この映画の始まり」と題された短いエッセイのなかで、板倉は『にくめ、ハレルヤ!』を着想する契機について次のように書き記している。


神戸で生まれ育ったその彼女がある日、ふいに自身が経験した阪神大震災のことを話しはじめた。別に暗い話しぶりでも、湿っぽい話しぶりでもなかった。ただ、彼女の経験した「なにか」を言葉にしようとするがうまく言葉にできない、そんな印象を受けた。私はただ黙って聞いているばかりだった。


以降、板倉は彼女が言葉にしようとして叶わなかった「なにか」の正体を探るように映画を企画する。そして自身と震災とのあいだに横たわる距離感を仮託した主人公を生み出し、かれの行動を通じて再び震災と彼女のうちにわだかまっていた「なにか」に向き合おうとする。しかし映画が完成し、震災から十五年が経とうとしている現在もなお、「彼女が話そうとした『なにか』はいまだ掴みきれない」。

もし板倉が真にその「なにか」を経験することを望むなら、かれ自身が1995年1月17日早朝の神戸で彼女の傍らにいるほかはないだろう。いや、仮にそうしていたとしても、彼女にとっての「なにか」を板倉がそっくりそのまま共有できるという保証などどこにもありはしない。

その「なにか」は他者からのいかなる解読も堅く拒んだまま、孤独に屹立している。もしその意味を確定しようとすれば、途端にそれは決定的な変質を遂げてしまうだろう。そしてそのような行為は、 彼女を安易に「被災者」として名付け・名指してしまうような杜撰さ──彼女を「怖い夢」のうちへ突き落とし、閉じ込める暴力とさえ無縁ではない。その危険について、板倉はよく知っている。


毎年1月17日には、慰霊祭の様子が善意に満ちた紋切り型の演出でテレビのニュース等で放送される。はたまた教訓的に災害対策が講じられる。必要なこととは思う。ただ「そんなもんだけじゃないやろ」とは言いたくなる。


おそらく板倉は「なにか」の実体を把捉しようと望んでいたのではない。それは巷に溢れる「震災」の物語、「被災者」の物語の新たな変奏(「善意に満ちた紋切り型の演出」)に終わってしまう。

「なにか」が意味するところを検証し見定めるのではなく、ただ、みずからの映画のなかにそれと同じ重さと質を備えた「なにか」を存在させること。このときその「なにか」は、仮構された物語内部における決定不能性──名付けられ・名指されることへの鈍い抵抗として表出される以外ない。

果たして沙樹がサキであったのかという問いは、通常、観客の想像力に委ねられている。しかし、その問いこそが、今われわれに提出された「なにか」にほかならないのだ。だから沙樹はサキであり沙樹はサキでない

裕人の祖母の鼻歌を反復するように流れてくる、沙樹のものと思われる(だが、どうだろう?)「アブラハムの子」のハミングは、この映画の終局部を曖昧かつ意味深にするための見え透いた演出などではない。その名前を呼ばれることに抵抗し続ける「なにか」=「私」があること。その「なにか」を名付け・名指すことは、ときに関係性を介した暴力への参与をも暗黙に意味してしまうが、「しかし、思考を止めることも、行動の前にあきらめることもダサすぎる」(板倉)こと。そしてそのような苛烈な現実に満ちた世界をわれわれは進んで憎悪し、また祝福しなければいけないこと。

不穏な雷鳴とともに、板倉はこれらの事実を観客に向けて倫理的かつ挑発的に突き付けている。


(『にくめ、ハレルヤ!』劇場パンフレット付録)