『YESMAN / NOMAN / MORE YESMAN』ノート (2008)

#1

ご覧くださる方と、ご覧くださった方のために!


映画『YESMAN / NOMAN / MORE YESMAN』はドイツの劇作家ブレヒトの戯曲Der Jasager und Der Neinsager (1931)を映画化したものだ。

この作品は『イエスマン ノーマン』という日本語題で知られ、未来社から出ている岩淵達治訳ブレヒト全集でも読むことが出来る。

もともと僕が『イエスマン ノーマン』という作品に興味を持ったのは、そのいっぷう変わったなりたちに強く惹かれたからだった。

そしてその関心こそが、この映画の特異な構成にも影響しているのだった。


日本の能曲「谷行」を読んだブレヒトは、それを大胆に翻案した戯曲「イエスマン」を書いた。ある村で、先生とその弟子たちが山越えの研究旅行に出ようとしている。

一人の少年が、母親の病気を治す薬を求め、周囲の反対を押し切ってその危険な旅に参加するかしその途上、少年は病にかかって先に進めなくなる。

先生と弟子たちは少年をどうしたものかと思案するのだが、その村には恐ろしい「しきたり」が伝わっていた。すなわち、旅の途中で病気にかかった者は谷に投げ込まねばならない。と同時に、そのことについて病人にも意見を求めなければならないが、しかし病人は必ず「了解」といわねばならない...。

かくして少年は弟子たちによって谷に投げ落とされる。


この戯曲はクルト・ヴァイルの音楽を伴い上演される。

そして劇を観たカール・マルクス学校の生徒たちによる討論から、様々な意見が出てくる。そしてブレヒトをもっとも動かしたのは、たとえばこのような素朴な感想だったのだろう、「このしきたり、どうも正しいものだと思えない」。そこでブレヒトは「ノーマン」に取りかかる。

その結末で、少年は「了解」と答える代わりに、先生と弟子たちを相手に「新しいしきたり」を提案する。すなわち、新しい状況に応じて、新しく考え直すことを。

結果、少年は谷に投げ落とされることなく、弟子たちによって村へと連れ戻されるのだ。


けれども、こうして出来上がった対のような二篇が、いま知られている『イエスマン ノーマン』ではない。

その後ブレヒトは再び「イエスマン」に立ち返るのだが、改作のポイントは、どのような状況下であれば少年にイエスといわせることが出来るか、だった。初稿「イエスマン」そして「ノーマン」ではたんなる研究旅行であった山越えの旅が、改稿版「イエスマン」においては村ぜんたいの生命が賭された、緊急の旅となり、一行が少年を谷に投げ落とさざるを得ないと判断するのも、神話的なしきたりがそう命じているからではなく、実際に少年を担いで狭い尾根を渡ってみた上で、やはりそれが不可能であるという実証的な結論に達したからだ。


つまりブレヒトは物語の合理化・啓蒙化を徹底させたのだった。

ブレヒトが認めた『イエスマン ノーマン』とは、この改稿版「イエスマン」と「ノーマン」の組み合わせである。

世界観のまったく異なった二つの作品が連作として並べられているという、じつに奇妙なことが起こっているのだが、『イエスマン ノーマン』という作品を読んだことがある人でも、そこに気を留める人は案外多くないのかも知れない。人が何かものをいう時には、つねに社会的なコンテクストに規定されているという、何度でも確かめねばならない大切な真実こそが、このいびつなカップリングに込められているように思うのだが...。


僕がこの映画の構成を考えた時、ブレヒトがこの連作を書き継いでいった通りに並べてみようと思った。つまり、公式のものではない初稿「イエスマン」から始め、「ノーマン」、改稿版「イエスマン」という時系列に従って。そうすることで、ブレヒトの「弁証法的」歩みを辿り直すことが出来るのじゃないか、そしてその先には、書かれざる改稿版「ノーマン」が見えてくるのじゃないかと思ったのだ。 ブレヒトは「ノーマン」の改稿版を書かなかった。


既存のしきたりに追従することを拒み、新しいしきたりを提案する進歩的な少年を、共同体ぜんたいの生命が危機に曝されているようなシビアな状況に投げ込んでみて、その時、いったいかれがどのような選択をするのか。現代的なmeismの主題とも深く関わるはずの、改稿版「ノーマン」のあり得べき可能性を考えることこそおもしろいと、撮影前にお会いした時、岩淵先生もおっしゃっていた。

 

しかし、僕は自分の頭だけで改稿版「ノーマン」、すなわち「MORE NOMAN」を考え出すことにまったく興味がなかった。

改稿版「ノーマン」をめぐっての僕の興味は、かつて初稿「イエスマン」の上演を観たカール・マルクス学校の生徒たちがしたような討論を現在の同年代の子供たちが再びおこなうこと、そしてそのプロセスを映画的に記録すること、さらにその討論を通じて形成されたあるひとつの(多分に暫定的な)コンセンサスをもとに、もう一度劇化=映画化することだった。


映画『YESMAN / NOMAN / MORE YESMAN』はそのためのスプリングボードとして構想され、つくられたのだった。

しかし未だその跳躍を試みることが出来ずにいる。それを踏み止まらせているものが何なのかはわからないが、いまはまだその時ではないという思いが確かにある。そしてどこからか、「われわれはシェイクスピアを変えられる。もしわれわれがシェイクスピアを変えられるなら」というブレヒト自身の言葉が執拗にコダマする...。


ブレヒトの『イエスマン ノーマン』は作者によって認定された以上、完結しているわけだが、この映画は未完結である。

(続く)



#2

ご覧くださる方と、ご覧くださった方のために!


数年ぶりに、この作品に関する雑多な書類が詰まった大判の封筒の中味を漁ってみた。当時参照した資料、企画書、ロケハン時の写真などが次々に出てきたが、なかでも思いがけずに懐かしく、手にもしっくり馴染むようなのは、やはり撮影用のシナリオだ。


「OKUTAMA」「EGOTA」というふうにロケーションごとに分けられ、さらに「YESMAN 1」「YESMAN 2」「NOMAN」というように各ヴァージョン別にまとめられた台本をめくると、すべてひらがなで表記されたダイアローグとト書きとが、びっしり横書きで並んでいる。日本語の初学者向けのテクストのようでもあるが、どこか暗号めいた不穏な印象さえあって、これをつくった本人ながら、撮影から六年の時を隔て、少し異様に感じたのだ。

日本語をネイティヴとしない出演者のために、という実際的な理由が無論大きかったのだが、しかしそればかりではなかった。すべての文字がひらがなに変換された横書きの台本をわざわざつくり、持ち歩き、始終それに見入ることで、僕自身の日本語に対する向き合い方をほんの少しだけズラしたかったのだ。日本語に対して外国人になりたかったといってもいい(こういうとまるで一時期の新庄剛のようだが...)。


自然な環境としてある母国語を出来るだけ軋ませること、母国語から内発的な見せ掛けを奪って、外在的な物質感・異物感を剥き出しにすること。決して理路整然と考えた上ではないのだが、そのような狙いがあったことは間違いないと思う(いや、そんな小手先の方途では日本語の圧倒的な磐石ぶりを揺るがせることなど到底出来ないとは当時もわかっていたが、にも関わらず、やはりそうしたかったのだ)。

と同時にそれは、一般に映画台本が採用している慣例的な書式を異化することでもあったように思う。これから映画を撮る時は全部このスタイルで行く、とスタッフに口走り、まるで理解を得られなかったことをぼんやり憶えているが、無理はない。それはたんに読みにくいだけだ...。


日本語を「手篭め」にすること。それは表記の問題である以前に、何より翻訳の問題だった。 シナリオを作成するために、岩淵訳を参照しつつ、ドイツ映画研究者の渋谷哲也さんの多大な協力を得て、一文一文に細かな検討を加えていった。その際の大きな方針は、日本語としての自然さよりも常に原文に忠実な逐語体を優先させること。主語や所有格をなるべく省略せずに、慣用的な言い回しも日本語の文脈に置き換えることなく、出来る限り直訳で通すこと。また行分けに関しても、原文でなされている通りにした。


学校オペラ」と名付けられたこの戯曲だが、ヴァイルの作曲は初稿「イエスマン」にしか付けられておらず、この映画においても伴奏音楽を用いることは初めから考えなかった。そのため、詩型による行分けを尊重すること自体にはまるで意味はないのだが、その部分についても、あくまで行分けはテクストに従った。

三鷹にある渋谷さんのお宅や、時にルノアールの店内などで、渋谷さんの懇切丁寧な解説を受けながら、ワンフレーズごとに、ぎこちなく言葉を組み上げていく作業は本当に新鮮で、スリリングだった。


このような翻訳へのアプローチは悪しきテクスト主義との誹りを受けるかも知れないが、僕はテクストそのものの正統性に追従していたのではなく、それが抵抗力を持って外在していることを何より体感したかったのだ。映画をつくりながら、テクストが示す執拗な抵抗力を味わうこと、しかもそれを原文によらず、翻訳という不純さを介して、あくまで日本語の問題として感じ取りたいという倒錯した思いが、確かにそこにはあった。

(続く)



#3

ご覧くださる方と、ご覧くださった方のために!


この映画に出演してくれた人たちは、少年役を除いて、皆日本語を母国語としない。その理由は、#2で書いた日本語の物質性・外在性を極端なかたちで際立たせることにあった。

しかしかれらと日本語のあいだの関係は、日本語がネイティヴである人間が母国語に対する関係とは当然質を異にする。個々の習熟度とは別に、やはりかれらと日本語のあいだには乗り越えがたい距離がある。だからかれらは、二重の意味で「法」のあからさまな強制を受けているといえる。

すなわち、映画のシナリオという法と、日本語という法の。そしてかれらが体現してくれた不自由さは、この物語の基底に横たわって共同体の成員を律している「大いなるしきたり」の存在とも、どこか通底しているような気がするのだ。


いま僕はどこか他人事のように法の強制といい、不自由さともいった。そして僕はここで避けては通れない問題に出会うのである。つまり、それをかれらに課したのは、この映画の演出家であるこの僕にほかならない、という事実だ。 日本語を母国語としない役者たちに囲まれたこの映画の撮影現場で、僕は法を強制するものとしての演出家の役割を、知らず知らず体現していたと思う。それは時には発音を教授する良心的な教師のようで、時には言語を統制する邪悪な独裁者のようでもある。

日本語という法を自明なものとしてではなく、あくまで外在的なものとして扱うことが出来たこの映画の現場だからこそ、見えてきたものがあるといまにして実感している。そこではおそらく通常の撮影現場以上に、シナリオと演出を介在させることによって結ばれる関係性の根底に潜む不均衡さ・危うさがあらわになっていたように思うのだ。


その不均衡さ・危うさは、日本語がネイティヴである人達を被写体に選んだ場合にも、法を課すものとしての演出家の役割が変わらない限り、根源的には変わらないといっていい。映画づくりというもの、演出というものを、このような視点を抜きに語ることは無効だとさえ思う。その意味で、すべての演出は政治的な問題なのだ。

そして演出家たるものは、技術論以前に、まずそのことに自覚的であるべきだし、少なくとも僕は、映画の演出というものをそこから考えていきたいと思うのだ。


思いがけず話がややこしい方向に行ってしまったが、次にこの映画のキャスティングについて語りたい。 非ネイティヴの人達に出てもらおうと決めてから、企画の意図を説明した出演者募集のビラ(英訳)をつくって、カフェや大学など各所に配り、また、フリーペーパーにも載せてもらった。

その日から、制作の柴野淳君の携帯には昼夜を問わず外国人からのコールが殺到し、かれを悩ますことになる。そうやって知り合うことが出来たのが、先生役のFelix Owusuさんと弟子役のEdriss Alexisさん、Alfredo Afonso Ferreiraさん。お三方とも、初めて会った場でこの映画への真摯な意欲を示してくれ、ほとんどそれだけで決めた。残る弟子役のPol Maloさんは衣装を担当した居原田眞美さんの紹介で、美術家でもあり音楽家でもある人。母親役の凌雲鳳さんは渋谷哲也さんの大学の同僚。声の出演のJana UlbrichさんとRaimund Reppichさんは、東京横浜ドイツ学園の生徒。やはり渋谷さんの仲立ちがあって、そこの先生方に推薦していただいた。 少年役を日本語のネイティヴとしたのは、しきたりの犠牲者であると同時に改変者でもあるという、かれの両義的な立場の特異さを、周囲との言葉の位相の違いに反映させたかったから。永野雄太さんとは横浜市のフィルム・コミッションの協力によって出会うことが出来た。


ひとつ、忘れられない光景がある。 あの年の四月のある晴れた日、先生役のFelixさんの住まいにほど近い西葛西の公園で、Felixさんと台詞の練習をした時のこと。

幼稚園児たちが楽しげに走り回る、平和そのもののような公園の片隅で、直立したFelixさんは恐るべきしきたりの存在について、繰り返し繰り返し、声を張り上げ説いていた。

Felixさんが台詞の練習に注ぐ情熱は驚くべきもので、それはほとんど畏敬にさえ値した。先に僕はシナリオや演出が孕む関係性の不均衡さや危うさについて述べたけれども、しかし、あのどこか場違いで、ユーモラスな光景のなかには、同じ関係性が時として持ち得る、ある幸福なかたちがあったように思う。

(続く)



#4

ご覧くださる方と、ご覧くださった方のために!


この映画はある意味、一に山登り、二に大工仕事の映画だったと思う。

おもな撮影場所は奥多摩の山小屋と都内のビルの地下につくった部屋のセット。まず山の部分を撮ってから、十日ほど間を置いて、セットでの撮影に臨んだ。


奥多摩の一杯水避難小屋には、結局何回足を運んだのだろうか。

奥多摩駅から数十分バスに揺られ、そこからたっぷり三時間、険しい山道を歩く。小屋には電気も水道もない。

わずか二、三日の撮影だが、全員に必要な飲み水、食料、酒類を当日機材とともに運び上げるのは到底不可能だった。

そこで本番の一週間ほど前に重たい水や酒を担いで上がり、山小屋の裏手に埋めることにしたのだが、出発の前の晩、明日持って行くはずの角瓶を数人であらかた空けてしまい、それでも死にたくなるような二日酔いのまま荷物を背負って、三時間歩いた。

山での撮影はゴールデン・ウィークにおこなったので、一般の登山客も少なくなかった。

これほど人止めが似つかわしくないロケーションもないかと思うが、その都度スタッフが協力して、平身低頭、対処してくれた。

とはいえ、下山前にふと小屋の利用者が自由に書き込めるノートを覗いてみたら、「まったく映画屋の奴らのやることといったら!」というような手厳しい書き込みに出くわし、感じ入りつつ黙って閉じた。

撮影中、渋谷哲也さんと宮武嘉昭さんがそれぞれ陣中見舞いに来てくれたのも忘れられない。

取り分け宮武さん(キャメラマンで映画美学校時代の僕らの先生でもある)は、もうとっぷり日が暮れて、さすがの宮武さんも今日はもう来ないだろうと誰もが確信した頃、「いやー、すっかり道間違えちゃった!」と、まるで緊迫感に欠く声音を響かせ、当り前のように暗闇から現われた。

僕らが映画を撮る時、宮武さんはいつも決まってこんな調子で登場したものだ。


部屋のセットを組んだのは江古田教会の地下室。

もともとカステラ工場だったという建物で、天井の高い大きな地下室が物置き代わりに使われていた。

紹介してくれたのは美学校で同期の福原まゆみさん。

共産主義者の戯曲に基づく映画を教会で撮影することの理不尽さに教会サイドが目覚めてくれなければいいがと思っていたが、無論それも杞憂に終わり、江古田教会の皆さんには最後までお世話になり通しだった。

セットの設計と施工を担当してくれたのはやはり美学校で同期の尾崎淳一君。

サイレント映画で見るような、天井のない、三面の壁に囲まれただけの古ぼけた部屋のセットと、一幕物の室内劇を上演するような、自然主義的でありながらもどこか抽象的な舞台装置との奇妙な混淆をイメージしていたのだが、そのアイディアから尾崎君が紙でミニチュアのモデルをつくってくれ、それをもとに具体的な設計を検討した。

実際のセット組みは尾崎君と助手の四方智子さん(やはり美学校の同期生)を中心に、スタッフ皆の協力を得て、コツコツと進めた。壁紙を貼ってくれたのは制作の柴野淳君の旧友である職人さん。

新築同様に美しく仕上げてくれたのだが、さすがにそのままだと真新しすぎるので、汚しを入念にやった。

窓にかかったカーテンなどの細部は、本作のキャメラである秋元エマさんの仕事が光っている。

映画では屋外も映るのだが、外側を別につくる余裕がなかったので、室内のシーンをすべて撮り終えてからセットをつくり替え、部屋の壁を塗り替えて外壁に変身させた。

もう時効だと思うのだが、年季の入った木製のドアは取り壊しが決まっていた池袋の築四十年だか五十年だかのアパートの共同便所のドアを、僕と柴野君が夜忍び込んで失敬してきたもの。

「タンスと二人の男」よろしく、二人でドアを担いで、柴野君の部屋までえっちらおっちら運んだのを憶えている。

セットを使った撮影は初めてだったが、舞台上の上演を映画的に分割し、記録していくようなプロセスは喜びであった。あのセットは、ある種の人工性・抽象性と生身の肉体が共存し・拮抗する場であった。


四回に渡って書いてきたこのノートを終えるにあたって、ともに作品をつくったスタッフの名を列記したい。主要な職分を記したが、皆が与えてくれたものの豊かさはとてもそれに収まらない。


撮影は秋元エマさん。照明は大城宏之君、葛生賢君。録音は菅沼俊輔君、宮田啓治君。美術は尾崎淳一君、四方智子さん。衣装は居原田眞美さん。助監督は石住武史君。制作は柴野淳君、上村久美さん。

そして独語監修に渋谷哲也さん。渋谷さんには準備段階からたくさんの有用な教示をいただき、また、この映画にとって大切な方々を紹介していただいた。改めて感謝したい。

最後になったが、この映画の編集に協力してくれたのは、他ならぬ当サイトの管理人を務めておられる近藤聖治氏である。

動かしているマウスがマウスパッドから落ちそうになったらどう対処すべきかさえ知らない(!)僕のために、長時間に渡るオペレーションを完遂してくれた。

しかもワールドカップの重要な試合を少なからず犠牲にして。その知恵と技術と忍耐がなければ、この映画は完成しなかった。


本当にありがとう。


(映画『狂気の海』公式サイト ※現在は閉鎖)