教育劇「イエスマン」の連作は、特異な制作過程を経て生まれたものだ。能曲「谷行」に創意を得、そこから宗教的な要素を脱色するかのように書きあげられた初稿「イエスマン」。その上演を観たカール・マルクス学校の生徒たちの忌憚なき批判を容れ 、書き換えた結果の 「ノーマン」。再び初稿へと立ち返り 、合理化が徹底された第2稿「イエスマン」。これらすぐれて弁証法的なブレヒトの歩みは、僕に真撃さの印象をもたらしはする。だがより意義深い点は、「ブレヒトが変えたこと」以上に、「ブレヒトが変え(られ)なかったこと」に存すると思えてならない。それはすなわち、理性化されたはずの第2稿に亡霊のように紛れ込んだ「しきたり」の一語であり、形式的な手続きは履みつつも結局はまた服従を選ぶ自己放棄である。それらはスターリン時代の悪夢などではない。教師が少年の家のドアを叩くように、幾度も幾度も我われに回帰しつづける現実である。
(京都国際学生映画祭2003 カタログ)